モノクロ・フォトエッセイ:大淵 環


数ヶ月前のこと、母と叔母が家の古いアルバムを整理していた。私の家に在る一番古いアルバムには、大正期~戦後までの家 族や親戚の写真がたくさん貼ってあった。台紙も表紙の布もぼろぼろ、写真は全てモノクロで、色褪せているものも多い。叔母はその内の数枚をコピーして欲し いと言った。「今はコンピューターで簡単にできるのでしょう?」

若い頃の祖母のポートレート、祖母とワンパクそうな子供時代の父、父が進学した時の家 族写真。叔母はお下げ髪の少女だった。私は自分が生まれるずっと前の、そして叔母以外はもうこの世にいない家族写真をスキャニングして、パソコンに取込 み、画像処理で写真のカビや汚れを修整する作業をした。

モニターに拡大されて現れたモノクロ写真、アルバムに貼ってあった古い写真を私は何度 も見たことがあったはずなのに、こんなに美しいと感じたことはなかった。これらの写真が美しく見えるのは、単に肉親や懐かしい人達の姿が写っているからに 過ぎないだろう。しかし、それだけでもないように思える。

スキャニングした写真のうち最も古いものは、約65年前に撮影・プリントされたもの だった。パソコンのモニターを介して、私はそのプリントの柔らかく豊かな諧調に驚いた。アルバムの管理が悪かったために、写真の表面は痛んでいる。無造作 に糊で台紙に貼ってあったのだ。幾度となく素手で触られたはずだ。しかしモノクロの画面そのものは、プリントされた当時の白と黒の耀きを失っていない。 30代の祖母のポートレートからは、肌や髪のつややかさ、絹の着物の質感が細部まで生き生きと感じられる。またモノクロ写真のシンプルな表現は色彩という 装飾がないだけに、当時の祖母の内面的な何かを伝えているような気もした。そこまで考えてしまうのは身内の写真だからかもしれないが、モノクロ写真の堅牢 さと美しさとを再確認することとなった。

私自身、モノクロ写真で作品らしきものを作りは始めて15年ほど。撮影レンズとフィルム・伸ばしレンズとバライタ印画紙によって表現された、あの空気感、言葉に表せない雰囲気にずっと魅せられている。それらを失いたくないと切実に思った。時代が変わったとしても。

 叔母には、変色し難いと言われている顔料系プリンターで出力したプリントを渡すことになっている。できるだけオリジナルに近づける努力はすけれど「同じものはできないのよ」と、言わなければならないようだ。

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